Project SOLA

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ドワンゴの川上氏は宮﨑駿に逆ギレするべきだった? 〜自然と人間の狭間には〜 #projectsola

      2017/04/11

ドワンゴの川上さんが、宮﨑駿氏にAIのゾンビを見せて超説教食らった……!というネタがバズっていた。

宮﨑駿監督、ドワンゴ川上量生会長を一喝「生命に対する侮辱」

これを見て、

「何言っちゃってんの宮﨑駿!?全然何にも分かってないじゃんか!川上さんは逆ギレしたっていいと思うぞ!」

……と思ったので、勢いのままに書き殴ってやろうと思い。



ドワンゴ川上さんの代わりに逆ギレしてみた

「『障害者を思い出した』って、それは勝手なあなたの主観でしょう!?『祟り神見て不愉快だ』って人もいるだろうに、なんでそれを棚に上げて『痛みを知らないんだ』とか言われなきゃいけないわけ!?何こいつ、完全に老害じゃん!!!」

とか思ったわけです。自分だってアニメ始めた頃に、先に実写映画やってたジジイどもから、「アニメなんて映画じゃない」とか、「実際に人間が行う痛みとか知らないだろう。非常に不愉快だ」……とか言われたらどう思うんだ?自分がそっちの立場になったら同じ事言っちゃうわけですね。痛みを知らないのはどっちだよ!

……という感じで終わろうかと思ったんですが、その前後の文脈を見ずにどうこういうのは良くないな、と思ってNHKスペシャルを観てみました。

そうすると、全く違った感想が生まれてきたので、その部分を追記したいと思います。

NHKスペシャル「終わらない人 宮﨑駿」語録

https://www.youtube.com/watch?v=JSAfScS2c_Y

まず最初に出てきた言葉。

『今の時代に合わせて生きていく気は無いから』

出た!出ましたよ逃げ切り宣言。日本にはこういう老人が多いので、時代に適応できないんですね。続いて、才能のある若手が出て来ず、ジブリを任せられないという文脈において、

『スタジオは人を食べていく』

と。……これは、確かにそうかも知れない。

何かに守られるようになったら、クリエイターというのは終わりなのかもしれないと思っているので。他にも思う原因はあるけど、次に行きましょう。

CGアニメに興味を持っている所が紹介され、『これからはCGの時代だ』というナレーション。

……CGの時代?

この辺から、ちょっと深い考察が生まれてきました。

徐々に変化していく思考の方向と、大企業病に陥るジブリ

CGの出来が不満で、現場が煮詰まってきます。そして、

『恥ずかしい物はやりたくない』

クリエイターらしい発言です。分かる。確かにそれは分かるが、それを追求しすぎると、ブラック労働が生まれ、予算が際限なく増えていくことにもなる。アニメ業界が潰れかけているのもこの辺が理由でしょう。

『こういうのは文化ですから』

『何十年かの積み重ねがパーになるかも』

これも完全に、伝統文化に陥っている人間の発言ですね。自分の中だけで培われてきた経験を業界と同一視し、そうでないもの、不完全な新しい物を受け入れない。

パーになったらダメなの?その先にある新しい文化を作ろうとはしないの?その妙なプライドがあるから先に進まないんでしょう!?完全にジブリも大企業病と同じですね。



宮﨑駿という日本のイノベーター

『自分の神通力が通用しない』

ペンタブで絵を描こうとして、うまくいかない様子にて、鈴木Pが放った一言。……そう、これまではハヤオ神通力があったのでなんとかなっていたが、機械相手にはそうはいかないんです。ここで確信。……そうか、宮﨑駿とはスティーブ・ジョブズと同じなんだと。圧倒的なワンマンで、遠くにいる人には神に見えるけど、周りの人間にはただのワガママなめんどくさい人間に過ぎない。

日本にもいたわけです。革新的なイノベーターが。

マンガにおいては手塚治虫。そしてアニメ業界では宮﨑駿だったんですよ!

アメリカはさすがで、ジョブズのようなそういう神懸ったクリエイターの作品を、きちんとビジネスに繋げる力があった。

……でも、日本はそれができず、業界ごと潰してしまうような危機に陥ってしまったし、そもそもそのことにも気づいていない。

そういう人間は引退してからも、

『何にもしないってつまんない』

クリエイターであれば、こうなるわけです。遊んで暮らしていけるようになっても、それはつまらないから何かを作る。仕事をする。……これが、ベーシックインカム時代の見本なんですよ。

宮﨑駿の、映画に対する姿勢と目的

『ワンショット見た時に素晴らしい!と思う映画を作りたい』

『生き物の気配が無さすぎる』

『世界は美しいって映画を作りたい』

『こういう時代は渇望するものがあるはず』

……なるほど。これでほとんど分かりました。

冒頭の話に戻りますが、こういう価値観の人であれば、確かにドワンゴの川上さんがあのCGを見せたのは悪手だったと言えるでしょう。おそらく、『ジブリがCGアニメに興味を持ち始めてるらしいぞ?』……なんて話を聞きつけてプレゼンに行ったんでしょうが、それまでの文脈を知らないと、

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「あ〜……」

……ってなるのも仕方ないですね。意見は変わらないですが、やり方がマズすぎました。『どこへたどり着きたいんですか?』という鈴木P。それに答えられない川上さん。

これもマズかった。上の世代は、とにかく哲学とか目標が重要なんですよ。今の時代のように、「できるからやってみました」とか「やってる事自体が面白いんです」みたいなのは通用しない。

せめて彼にプレゼンをするなら、現代の魔法使いの落合氏を持ってこないとダメでしたね……。そして最後に、

『地球最後の日が近い』

『人間が自信が無くなっている』

という結論を導き出し、再び長編アニメを描き始める駿氏。という構成でした。



動画を見終わって感じたことと結論まとめ

NHKという部分と、編集はされたにせよ、そんなTVには左右されない駿氏の性格を鑑みても、大雑把な部分ではあらすじは歪んでないと思います。

そこで感じた私の結論を以下にまとめておきます。

宮﨑駿氏は、根っからのクリエイターなんでしょう。ジブリの作品は好きですが、彼自身を見ていると、ムカムカしてくる。……何故かと言うと、とても良く似た存在を身近で知っているからです。

……それは、私の父親。

クリエイターになりきれず、看板屋をやって生きてきましたが、まさしく言ってることがこの通り。コンピューターに負けないようにと人間らしいフォントや作品を磨いている様は、全く瓜二つでした。

クリエイターとしての姿勢や直感は尊敬できるけども、それ故に視野が狭く、ビジネス的な側面も弱い。そのおかげで後を行く者たちは苦労させられるわけです。……簡単に言うと『不器用』。その言葉に尽きるでしょうか。

ジブリ哲学と現代環境の食い違い

生命賛歌がジブリや宮﨑駿氏の哲学のようですが、CGなどは生命とはかけ離れた無機質な存在。しかも、有機物である生命の光の側面に焦点を当てるジブリとは真逆の、無機物の闇の部分を凝縮したような内容をプレゼンしてしまったドワンゴ。俺だったら見てられなくてその場から逃げ出すレベルだったでしょうね。

……そういった部分で言うと、駿氏などは「幼い頃から自然に触れ合ってきた存在」なわけです。

一方で最近の若者たちはそう言った環境からかけ離れた生活をしている存在。自然の微妙なゆらぎのようなことを伝えようとしても、うまくいかないのは仕方のない事なんでしょう。知人から聞いた話によると、漫画家の荒川弘がアシスタントに馬の絵を描かせても、動物が全然描けないと。そういう環境に育っちゃってるわけですよね。

かくいう駿氏も、何だかんだ言って東京に住んでいるわけです。でも彼ほどの力とビジョンがあれば、それこそどこかの田舎に、理想の村だって作ることが出来たかもしれない。それをやってこなかったのであれば、あんなこと言えるような筋合いは無いんじゃないかと思いますが。

今は地球最後の日なのか?

地球最後の日が来るかもしれない、と駿氏は語っていますが、正にその通りだと思います。……これからは無機物の時代であり、それは同時に宇宙の時代でもある。

友人の柔道家と話していましたが、もしかしたらこれからは、「二次元の人工知能と結婚して、AIの子供を作る人々」が出てくるかもしれない。……あながち的外れでは無いかも知れないと思っていますが、どうでしょうか。

果たしてこれからはCGの時代なのか?

違います。CGと人間のクリエイティブが融合していく時代です。

同世代の人間なら、ファイナルファンタジーは知っているでしょう。で、あのFFはある時から急速に面白くなくなりました。それは、『CG化してリアリティを追求し始めた頃から』だと思っています。

何故なのか。

私の仮説では、抽象度が高いほど、人間の脳は足りない部分を補おうとして、活性化します。そこで想像力が働いて、刺激を受ける。……それが『面白さ』に繋がるんですね。

抽象度と解像度と面白さ

で、抽象度というのは、

抽象度高←       →解像度高

文字>粗い絵>細かい絵>写真>ビデオ

という風にチャート化できると考えています。これは要するに、

詩・ポエム>小説>絵本>写実画>カメラ>動画・映画・ドラマ

というコンテンツの差で表せるのかと。

写実画を描いていた画家が、抽象画に向かうのは、この辺の理由からなんでしょうね。

自然とCGのギャップとは何か?

で、CGというのは確かに精密でリアリティがありそうに見える。……でも、実はそんなにリアルではなく、不自然なんです。

何故か。

「自然というのは、実はすごく数学的で計算可能なものである」ということを知っているでしょうか。フラクタル図形などでも有名な、野菜のブロッコリーの一つの種類である「ロマネスコ」などが特徴的ですね。

ロマネスコ

自然というものは最も合理的でもあるので、そうなるように最適化されているというのも納得できます。例えば双葉が出た場合、次に出る葉は日光を遮らないようにするために90度曲がった場所から出てくる、など。

ただ、自然とは完全に合理的なのではなく、必ず『バッファ』を持っています。1/fゆらぎと言われるような、遊びの部分ですね。これによって柔軟性を獲得し、急激な変化にも耐えられるようになっているのです。

なので、完全にCPU任せにしてしまうと、この『ゆらぎ』の部分が無くなってしまうので、とても不自然に感じるようになるんですね。

宮﨑駿という有機体マシン

つまり、宮﨑駿ほどのクリエイターになると、まだまだ全然マシンよりも『センサー』も『CPU』も『アクチュエータ』も優れているので、そこまで辿り着けないマシンにイライラしてしまうというわけです。

言うなれば、「子供の仕事を見ているようなもの」だということ。唯一優っているのは、「正確性」や「耐久性」になるわけですが、本人はまだ認めないかな(笑)。

というわけで、私がもしこのようなプロジェクトに関わるのであれば、『スムーズさや正確さが求められる部分はマシンに。ゆらぎの部分は人間にやらせる』という方法を取るでしょう。

簡単に言えば、お互いのいい所を補い合えればいいわけです。狭間にこそ文化の発展はある。これは、農家であり、自然と触れ合いながらもテクノロジーに詳しい私だからこそ分かることなのかもしれません。

最後に一言

というわけで、結論としては、川上さんは、

「うるせーなジジイ。お前らにはこの可能性の凄さは分からんだろうが!いいからとっとと死ぬまで手描きで新しいの描いてろや」

とでも言うべきだったんじゃないかと思いますね。

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